ある美術館で絵の解説がありました。
その時、学芸員から絵は「色」「形」「構図」が大切と言われました。でも私流に言えば、「技術的に上手」の場合はこれが大切ですが、
絵を描く際はむしろ、「楽しみながら描く」、「気持ちを込めて描く」、「自分を描く」とメンタル面が大切ではないかと思っています。
 私の場合、絵は小学校から描いていますが、美大は出ていないし、専門の教育を受けていません。しかし、絵は続けてこられました。
私は「下手」と自認しています。「下手で10年も描ければ立派な持ち味」と自分に言い聞かせ、本日も描いています。
先日テレビを見ていたら大林宣彦監督が言っておられました、「失敗は個性」いい言葉です。(08/9/23追記)

(クリックするとその先生段へJumpします)
(故)水沼兼雄先生 (故)西村清暁先生 (故)山田鐡郎先生 (故)谷口勝司先生

(故)水沼兼雄先生からの示唆(記 2012.6.22)

 私が、高校3年生の時でした。
授業で美術or、書道or、音楽の選択科目があり、美術を選びました。これといった理由はありませんでしたが、他の2科目よりは自信があったからです。
 小学校に上がる前から母の指導?で白い広告紙の裏に絵を描いていました。小学校時代は図画が好きで、描いた絵は教室の後ろにたびたび張り出され、金紙や銀、赤紙が貼られていました。もちろん通知簿では4か5でした。また校外での展覧会にも出展し、賞状を貰うこともありました。
 中学校では美術の思い出はあまりありません。どちらかというと写真に凝っていたと思います。 高校も美術クラブに入るでもなく、2年までは選択科目でもなく、特に思い出はありません。
 3年生になると自分の進路を決めていきます。友達は絵を勉強するために東京の専門学校に行くと言っていました。それを聞き、私もその気になり、(故)水沼先生に相談しました。

 曰く「西村君、絵で飯を食べるということは大変なことだよ、私もここで講師をしながら、妻に画材店をさせながら、好きな絵をようよう描いている」(ことばは違ったかも知れませんが主旨はあっています)と言われました。

 農家の長男の私は、そのことばを聞いてすぐ就職のほうに舵を取りました。その時に選んだのが当時の「日本電信電話公社」でした。
 初任給は12,300円/月、初ボーナスの一部を「親に仕送り」(今となっては死語ですね)したことを思い出しました。

でもこれが幸いしたと確信しています。以後、生活や家族の扶養は給料でまかない、趣味だからこそ続けてこれたと思っています。
趣味ですから結構オカネが掛かり、安サラリーマンはマージャンや、仕立船による魚釣りを辞め、当時勧められたゴルフには手付けず、はやりのことばで言えば「選択と集中」で絵をやってまいりました。
 

       


故 西村清暁さんとの出会い(記2008/10/7)

 私が34歳(入社17年目)の時でした。電電公社(データ通信部)での営業の仕事も一応マスターした頃です。
若い時にしていた絵を再び始めようと思い、当時、自宅近くの安古市公民館で「水彩画教室」が始めるとのことです。すぐ応募しました。
西村清暁先生は高校の美術講師や相撲部の顧問をやられていたそうです。公募団体は春陽展に出されていたそうです。
(「そうです」となったのは、西村先生が言われたのですが、「確認」はしていません。)

 教室での一番意識として残っているのは、「眼を細めていって、閉じる直前まで行くと、明暗がはっきりする。影をつける時に活用するとよい。」の言葉です。たしかにやってみると陰影がはっきりします。
この頃書いた水彩画(グアッシュ)がこれです。
   (生家に置いているので帰って撮影してきます。)

 そうこうするうちに、水彩画ではもの足らず、油彩画もやってみようと思い、教室の終わった後に、絵を抱えて西村先生の自宅に伺っていました。
先生も快く受け入れて下さり、自分のアトリエで教えていただきました。
このアトリエの隣の部屋には、二階でありながら囲炉裏が切ってあり(炭はなし)、この囲炉裏の側で色々な話を聞かせていただきました。

 活動は一年目は安古市町の主催行事でしたが、二年目からは会員の自主行事となりました。ということは、会場は無料で貸していただけるのですが、講師謝礼などは自主運営となります。年齢が一番若い私が事務方をすることとなりました。
これが結構大変で、先生の送り迎え、次第に受講者が減り、会費が少なくなると会費と講師料の差額負担、盆暮れの付け届け、個展の時の絵の購入と若いサラリーマンには金銭的に大変でした。(職場では飲み会やマージャンで負けたり、子供が小学・幼稚園に行き出したり、とにかく貧乏でした。)
結局4年で私が鳥取転勤となり、この会は終わったようです。

「小川のほとり」(F4) 1980(S55)年
 「白椿」 (F4) 1981(S56)年
この場所は手前が西村先生の自宅がある古市地区、土手の向うが私の住んでいるアパートがある中筋地区です。
手前の川が古川、橋は沈下橋でクルマも大型は通れません。中筋地区の現在は祇園新道やアストラムラインなどが走り、橋は現在ありません。
(2012.7.18追記)
何度目の個展かは忘れましたが、西村先生には珍しく厚塗りの絵でした。私も当時は厚塗りに憧れみたいなものがあり、参考にしました。
藪椿や八重の椿しか知らなかった私は白い椿があるのを知ったのもこのときが初めてでした。(2012.7.18追記)




















この頃の思い出をもうひとつ。
途中、安古市町から佐東町へ転居し、今の佐東バイパスのすぐそばの社宅でした。バイバスのそばにせせらぎ公園というのがあり、ここの四季を描いていました。また画材店のゴミ箱で拾ったF30号の木枠に自分でキャンバスを貼り付け、せせらぎ公園の秋を描き、広島県美展に出品したのですが、見事に落ちました。多分最初にはずされたと思います。
広島県美展については別に書きたいと思います。

       


(故) 山田鐡郎さんの教室(記2008.2.23)

 昭和61年2月、転勤先の鳥取から再び広島市に戻ってきました。3年ぶりです。この間、昭和60年には電電公社から民間の日本電信電話株式会社(NTT)に変わり激動の時代です。社員の固有スキルも収入に結びつけようとしていた時代です。その中で研修センターもコストセンターからプロフィットに転進が求められている時、空き教室で「NTTカルチャー教室」を開始されました。先生は山田鐡郎さんで私も最初から参加しました。

 山田先生の教室教室では、最初にまず15分くらい「今回の絵を描く目的とそれを通じて何を勉強するのか」のレクチャーがあります。
雄弁で、黒板に書きながらのレクチャーは時として30分になることもありました。
 技法は描く前に言われていました。
1.まず四角で。全体のバランスを考える。重なりも必要
2.その四角の中に明るいところ、暗いところを描いていく
 さあ、描き始めよう。とのことばで一斉に描き始めるのですが、時間に遅れた場合はよく怒られました。
「最初の話を聞いていないので、描く意味がわからん。勉強にならない」と。

 遅れを取り戻そうと一生懸命描いていると「さっきまで絵が活き活きとしていたのに、描きすぎて絵が死んでしもうた」と言われたことが何度もあります。上手に描こうとし、時間もあるので、つい描き過ぎてしまっていました。

 帰りの方向が一緒だったので、よく私がのクルマで送りました。
 ある時、自宅「アトリエを見せよう。」と言われました。続けて「制作過程や使用している絵の具が分かるから普通はアトリエを見せない。君には
この教室をいずれ任すから」と言われました。でもその後その教室は閉鎖となり、結局は任せて貰えませんでした。

元陽展への出品
(この項H24.6.25記)

 元陽展に最初に引きあせててもらったのが(故)山田鐡郎さんです。
当時、山田先生が指導されていた生徒のひとりでした。その生徒の私が、第18回元陽展(1987年)に山田先生の強い勧めがあり、私としても怖いもの知らずで出品しました。このころは2枚の作品を出し、2枚で審査される時期でした。描いた作品はF50号で、1枚は現場でスケッチした鳥取の田後「漁港」、もう一枚は実際の現場ではなく空想で廃船を描いた「漁村」でした。審査の結果、「漁村」の方が入選となり、ひとり喜んでいました。

 その翌年も今度はF80号で浜田市折居海岸でスケッチした「漁村U」を出品し、今度は地元賞の「中国新聞社賞」を受賞しました。
この2年連続入選で元陽会の会友に推挙されました。いまから考えると、この「賞」が描き続ける源になっています。
山田先生が常々「上手に描こうと思うなよ、下手に描け」と言われた意味がまだまだ分からず、とにかく出品することだけを目標としていた時期でした。

(故)山田鐡郎さんとの離別(この項H24.6.25記)

 ある時から急に私に対してツラく当たられました。今もって理由は分かりません。亡くなられていますので聞くわけにもいきません。
「西村君、会社の中でも浮いているそうだな」、このことばの源はだいたい検討がつきます。でもその方とは仲の良い関係でしたので、本人からのことばではないはずです。何かを勘違いされている。

 「展覧会場へ到着が遅い。」と数度言われました。当時NTTデータの社員でした。搬入/搬出のある日は月曜日です。午後搬入の時は午前中出社し、会議の資料や段取り、などし、午後有給休暇で会場に行くわけですが、会社と県立美術館はバス乗換で30分はかかっていました。バスもすぐ来るとは限りません。そんなこんなでだいぶ叱られました。
 搬出は月曜日午前中なので、有給休暇をとり、美術館へ直出ですので遅れたことはありませんが、どうしても出席しなければならない会議にはやはり会議を優先し、何回かは不参加でした。

平成9年4月、山田先生が「元陽会広島支部は解散する」「自分と一緒に行動するか」一人ひとり踏み絵をされました。大半の方が山田先生と行動を共にする」と言われていましたが、私は「元陽会で遣り残したことがある。元陽にとどまる」とお断りしました。
 これから色々とありましたが、次回追記することとします。

                        

   「飛翔」(平和公園)(H8)               「夕街にささやく月見草」(H10)                    比翼の連理(H10)

 これは第43回元陽展広島会場に来られた方からいただいた写真です。 一番最後の作品は亡くなられる数ヶ月前の作品だそうです。  
病気で亡くなられました。もちろん葬儀に出かけました。

 元陽にとどまったは良いが、会員が激減しました。展覧会をするには経費が足りません。
前回の解散会で新団体へ行くといわれた方にも「元陽を立て直そう。一緒にやりませんか」から始まって、各所には「元陽会広島支部は支部長が
替わっただけ。いままでどおり活動していく」と触れ回りました。私はこの時50歳、現役の会社員だったので支部長は固辞し、品川光弘さんにお願いしました。
 山田先生からは随分辛らつなことばももらいましたが、最後に「西村君、残ってもいいことはないぞ」が私に対する遺言でした。

     

(故)谷口勝司先生との出会い(記2012.6.28)

前記、「NTTカルチャー教室」が2年間くらい続いたのですが、なぜか廃止となり、まだまだ勉強の時期だったので、次の教室を捜していました。
会社のすぐそばの「ひろしま社会保険センター」で谷口先生が絵画教室を開催されていました。金曜日の午後6時開始だったので勤務が終ってから出向くのに丁度よかったです。
 その頃は谷口先生が元陽会広島支部長をされていました。私が第19回元陽展に出品した「漁村U」を地元賞の中国新聞社賞に推挙されました。後で聞いたことですが、賞について、山田先生が「賞にはまだ早い」と言われたそうですが、谷口先生は「良いものは良い」と言われたそうです。
この中国新聞社賞は、地元の者の新鋭賞的な扱いでした。谷口先生も私の2〜3年前に貰われています。これで自信がつき、以後ずっと休まず続けて出品しています。
 谷口先生の教室では、自由に描いていました。私から見れば前の山田教室と比較すると、何か物足りない感じはゆがめません。
 谷口先生自身の絵も特にテーマが決まっていたのではなく、毎年テーマを変えられていました。その時の一つが「宮島・蘭稜王」で、現在は広島国際会議場のロビーにあります。1989(平成元)年7月建築です。私も年に数度足を運び観ています。ここには当時の、広島絵画の重鎮の絵が多く在ります。無料ですし、ゆっくり楽しめます。(大歳嘉克衛氏のは応接室にあり通常は見られません。)

 谷口先生は、もとNHK広島放送局に勤めておられました。退職後、本格的に普及活動にあたられ、元陽会広島支部の設立や、中国新聞の主催事業にまでにされた方です。亡くなられた後、本部ではそれを顕彰して「谷口賞」が創設されています。


 谷口先生の絵は手元  にありません。
 この画集はなくなられ  てから発行されました。
(2012.7.18追記)

画集の中からチョイスした絵です。
                    
 「昇華3」(F100/第18回元陽展          「厳島・舞楽・蘭陵王」         「樹林」
(文部大臣賞 真行寺蔵)              (F100/広島国際会議場蔵)      (F100/広島市蔵)