八千代の丘美術館へリンクします。


W e b 
   (第47回萩市美展/1997/S50号)

私のインターネット・デビューは1996年でした。会社が開発したネット上の3Dバーチャルモールに入り深夜にチャットをしていました。高速のINS回線ではなく、低速ダイヤルアップでしたので通信料も気になっていました。しばらくしてこのモールは閉鎖されましたが私のインターネットデビューでした。

 Webとはクモの巣のこと。世界中にはられた情報ネット網に束縛される自身を投影してみました。またそれを見つめる顔を少し描きこんでいます。フレッシュグリーンが無くなり、赤色系、青色系なども塗り込みました。色の配置が良いと評価され、この絵で萩市美展「萩市長賞」をいただきました。後の「招待作家」へつながっていきます。 EMARGENCYシリーズ始まりの記念の一枚です。


B i g  B a n g
(第29回元陽展/1998/F100号)

「ビッグバン」とは宇宙創造期にあった大爆発のことですが、私は1990年代終わりにあった金融ビッグバンをイメージしました。金融業界が大きく変化し、私が勤めていた会社にも少なからず影響がありました。
 画箱の中のフレッシュグリーンが無くなったので、画面は赤色系が中心となりました。テーマもその年を表すものを選びました。

 混沌とした時代に翻ろうされ、悩める自分を表現してみたかった作品です。


Y 2 K 
  (第31回元陽展/2000/F100号)

 西暦2000年を迎えるとコンピュータが1900年との誤認し、コンピュータが停止や誤作動して社会的に大影響があるといわれていました。とくにマスコミが大きく報じていたように覚えています。

 私の勤めていた会社でも膨大な時間と手間をかけて機器の洗い出し、対応マニュアルの作成、お客様周知やあらためて個別プログラムをひとつずつ再見直しをしていました。そんなこんなを表現したのがこの年の作品です。

向かえた200011日は多少のトラブルはあったものの、システム停止にまでいたることはありませんでした。私も対策本部員として12日には宿直で監視にあたりました。正月に帰省できなかった数少ない年始でした。


D i g i t a l  D i v i d e
(第51回萩市美展/2001/S50号)

 デジタルデバイドとはパソコンやインターネットを使いこなせる者と使いこなせない者との間に生じる格差のこと。たとえばインターネットでチケットを予約すると並ばなくても良いし、安くもなったりします。あるいはパソコンが使えないと事務系の職はなかなか見つかりません。このように情報技術を使いこなせる者と、こなせない者とでは社会的な格差がどんどん拡大されつつあります。

赤色系で情報技術(IT)の持つエネルギーを表現し、周辺部の黒色でおきざりにされるIT弱者の気持ちを表現してみました。「IT革命」へのアンチテーゼです。

 ファーストシーズンは1987年の第18回元陽展に初出品した時から、2001年のEMARGENCYシリーズまで、約15年間に描いた絵を中心に構成してみました。

ぶれずに、ただただ真面目に描く。「至誠通天」    『不可止の想ひ』を感じていただけたら幸いです。

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職場から得たもの(Emargencyシリーズ)


Technopolis’92
 (第23回元陽展/1992/80号)

私は高校卒業後電電公社(NTT西日本)に入社し、NTTから分社したNTTデータ通信(NTTデータ)へこの年に転籍しています。

 昨年で漁村シリーズを打ち切り、『見たことから感じたこと』への切り替えの年でもありました。モチーフを何にしようか。苦悶の一年でした。カラオケは演歌を一切封じてJ-POP系の歌にしてみたり、外食時は和食系からカタカナ系の洋食にしたりと、生活環境から変えてみましたが、それでもなかなか構想がまとまりません。

 締切時期も近づいているので、()山田先生に相談しました。すると「職場の中に何かないか」とのヒントを出されました。そんなある日、社内のごみ箱の中に捨てられていたSCSIボードやコネクタをみて、模様の面白さも手伝って、これにしようと思って描きはじめました。


High Technology’93
(第24回元陽展/1993/100号)

昨年の「Technopolis’92」で初めて本展で奨励賞をいただきました。私の生活に密着した絵が描けたことが一段と自信となりました。

 この年、画材店で入手したターナー社のフレッシュグリーンの色がとても明るく気に入っていました。しかしこの色はすでに廃番になっているため、売り切れ寸前の何本かを9号チューブで手に入れました。

 このころからバーコードが一般化されたと思います。それを画面の一部に取り込んでみました。


High Technology’94
   (第25回元陽展/1994/F100号)

元陽展広島会場で、広島市教育委員会賞をいたたいた作品です。このシリーズも3年目を迎えました。

 透明色にホワイトを加えるととても明るくて鮮やかになることを知った時期でもありました。コンピュータの機能である入力→演算・制御・記憶→出力と、赤い線で情報を表現してみました。絵の中央部に人物と思しきものを配置したのもはじめてです。より内面へ、ようやく自分の絵らしさが描けだした記念となる一枚です。

 この頃は3DKのアパートの畳敷きの一室で絵を描いていましたので、終わると作品を玄関口へ移動し、それから布団を敷き就寝していました。


High Technology’96   
(第46回萩市美展/1996/S50号)

5年ごとに主題を変えると決めた最後の年です。ちょうどこの頃にはターナーのフレッシュグリーンが無くなってしまいました。
前年の1995117日に阪神・淡路大震災が発生しました。ハイテクによって運用されていた交通機関、通信網などは、巨大な地震の前にはなすすべもありません。もろくも破壊され、ハイテクの脆弱さも見えてきました。


 萩市美展には48歳から出品しています。定年後は出身地の萩での生活と決めていたので萩での就職活動もしたり、萩での友人を作りたかったので応募しました。そのため最初の頃は応募規定どおり住所を約1か月間生家に移していました。

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職場から得たもの  (ハイテクシリーズ)

漁村を描いていた頃

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 漁  港
 (第18回元陽展/1987/50号)

 鳥取県の東の端にある岩美町の田後漁港で取材したもので、元陽展へめて出品した作品です。
 しかし結果は落選でした。ただこの頃は2点出品しており、もう一方の作品が入選したので東京都美術館に初めて展示されました。その入選作品とこの絵が東京から一緒に戻り、(旧)広島県立美術館では2点展示されました。初めての体験で嬉しさ半分、照れくささ半分でした。でもこれをきっかけに27年連続出品することとなりました記念の一枚です。

 日本海では初夏になるとイカ釣り漁船の漁火が時間の経過とともに遠くから次第に近くなります。海水温もようやく春となります。



 漁 村 Ⅱ
(第19回元陽展/1988/80号)

 取材場所は浜田市の折居海岸です。元陽展用に海岸風景に関心を持ちながら歩いていると、目の前にあったのがこの風景です。急いでクルマへ戻り、ボールペンで広告か何かの裏紙にスケッチを取った覚えがあります。

 出品用にあらためて描き直し、研修会に持ち込んだところ、構図のよさを認めていただき、空の色や漁網の色など種々の細かい点まで指導がありました。

 結局この絵は中国新聞社主催の第19回元陽展広島会場で「中国新聞社賞」をいただきました。また会友にも推挙されました。(故)山田先生からは「天狗になるなよ」との言葉も付け足されました記念の一枚です。

 舟小屋は専業漁業者がいない地区に限りあるということは後になって知りました。



 北 風 の 浜
 (第21回元陽展/1990年/F80号)

 取材場所は益田市持石海岸です。この海岸は191号線経由で帰省する時よく通っていました。この頃はよく舟小屋の求めてはスケッチを取っていました。この作品は帰宅後、元陽展出品用にF80号に再構成しています。
 冬の日本海の北風を表現するのにグレーズ技法を多めに用いたのも初めてです。

受賞にはいたりませんでしたが、中国新聞の文化欄の画評にも2行程度に取り上げていただきました。20年以上経っても覚えていることからよほど嬉しかったのでしょう。

この年から同僚の勧めもあってサインをローマ字表記から漢字表記に変えています。



陽 光 の 浦
 (第22回元陽展/1991年/F100号)
この作品は第22回元陽展広島会場で、「広島市文化振興事業団(当時)」賞を受賞し、「92美術ひろしま」にも掲載されました。
でも、心の中では何か満足感がありません。

『自分が育ったのは農村であり、漁師への共感がどこまでできているのか。ただ見た(見えた)ことだけしか描いていないのではないか。漁師の気持ちにまで本当に入り込めているのだろうか』と自問自答を繰り返しました。

公募展(元陽展)には41歳から出品してきました。遅いデビューです。そのため試行錯誤を無期限にするのではなく、人生のスパンの密度を上げるため、主題を一定期間ごとに見直すように決心しました。漁村シリーズの最後の一枚です。